裁判を選択するという事

遺族・被害者は、
事故事件が風化してしまわないために
繰り返してほしくないという思いと
「なぜ、死んでしまったのか」「なぜ、こんな事が起きてしまったのか」
その事について、なぜ、誠実な対応ができないのか・・・
言葉では尽くせない思いや考えを必死に訴え動いています。
ずっと寄り添ってくれている友人、家族の存在、
支援してくださる方、思って下さる方々の存在は絶大です。

しかしその一方で
晒され、叩かれるのは遺族・被害者という現状もあります。
民事提訴をすれば
「やっぱり金か」「子供を金にかえるのか」とか。
刑事裁判については
「一人に責任押し付ければ気が済むのか」など。

そして、

 ・幼稚園に通わせた、お泊り保育に参加させた親が悪い
 ・子供の死に囚われている
 ・慎之介君がうかばれない、こんなことをしても喜ばない。
 ・もう一人子供がいたらよかったのに
 ・子供なんてまたつくればいい
 ・もう、子供は出来ないらしい
 ・刑事告訴、民事提訴をされたことで傷ついた人がいる
 ・幼稚園に通ってる子供たちの事も考えてほしい
 ・自分の子供が幼稚園に通っている間は大人しくしていてほしい
 ・良い思い出をもって卒園していった子供たちのことを考えてほしい
 ・先生たちも可哀そう
 ・裁判になって幼稚園も大変だね
 ・よその人だから告訴や提訴ができるんだ
 ・幼稚園・保育園なんてどこも同じで、そんなものだから仕方ない
 ・先生たちにもこれからの人生があるのだから許してあげないと
 
このような、
刑法や民法、裁判のシステムなどを踏まえた意見でもなければ
事件の本質を捉え考えた意見でもない言葉を、
言われたり、聞かされたり、見たりします。

傷つきはしないけれど
気分はとても悪いし、嫌だなと思います。

泣き寝入りをせざるをえなくなるのは
子供を失ったことで、被害にあったことで打ちひしがれているにもかかわらず
事故事件を引き起こした側(学校・幼稚園・保育園など)から
不誠実な対応を受けることで疲弊してしまう状況下で
原因究明や責任問題が不明確なまま通常・日常に戻すことが優先されてしまい、
【遺族・被害者】vs【幼稚園・保育園・学校】という2者間での問題となり
声をあげにくくなってしまう環境に置かれる現状があるということ
必死に現状を伝えても、信じてもらえなかったり受け止められなかったりすること
そして
自分たちの考える被害者イメージから外れたり、都合に合わないと
遺族・被害者を叩く世間の意識に対する怖さもあるからです。

出る杭打つ文化・社会
泣き寝入りをせざるおえなくなる風潮
無関心

こういった環境の中で、遺族・被害者は様々な「覚悟」のもと
裁判や活動を決心しています。

ロザリオ学園と西条聖マリア幼稚園には
慎之介が亡くなったことで、人間の尊厳まで奪われる対応をされ続けました。
誠実な対応をと法廷で訴えても、残念ながら、今も変わりません。

裁判という場で国家に、この事件は刻まれています。
この記録は私が死んでしまっても、永遠に消えないのです。
被告組織と教諭たちは「言い訳」を刻んでいます。

きれいごとで済まされることではありませんし
泣き寝入りはしません。

人の意識を変える、風潮を変えるというのは
とても難しいと思います。

でも、学校安全管理と再発防止を考える会の
賛同署名活動を続けて下さっている方々・貴重なご署名をくださった方々
賛同メールを下さる方々からの
あたたかく、心強い言葉に勇気と希望を頂いています。

小さな一歩でも、積み重なればきっと大きくなっていく。
そう信じてます。